会社概要
濱野建材グループ 沿革
| 大正時代まで | 和歌山県古座にて木材商を営む。 |
| 大正10年 | 大阪市天下茶屋に移転 |
| 昭和20年 | 戦災にあい、焼失。 吹田市に移転。 |
| 終戦後 | 戦後の復興で住宅建設が始まり、「濱野建材商工」として建材の販売を行う。 |
| 昭和30年代 | 公営住宅の建設が始まる。 平屋の木造公営住宅に塩ビ雨樋など新建材を納入する。 |
| 昭和40年代 | 簡易耐火住宅、ブロック造二階建てから五階建て住宅となり、壁用プリント合板、床材、畳下パーティクルボードを納入。 |
| 昭和45年頃 | 千里、泉北にニュータウン建設が始まる。 工場でパネル化し現場で組み立てるプレハブ工法と現場で加工する在来工法が並存する。 |
| 昭和47年 | 公営住宅の建設戸数がピークになり、永大産業、大建工業が内装プレハブメーカーに参入。 各社の特約代行店として営業。 |
| 昭和48年 | オイルショックにより、米栂、合板等が入手困難になり、現場の工期延期が続出。 |
| 昭和49年3月 | 「濱野建材株式会社」(代表:濱野昌平)へと改組。 |
| 昭和50年 | 内装プレハブメーカーの現場は工期通り納入したため、大阪市・大阪府の全現場がプレハブ工法になる。 当時の公営住宅はケースウェイによる露出配線。 |
| 昭和53年 | 濱野恭平、代表取締役に就任。 |
| 昭和55年 | ユニ・チャーム褐嚶゙事業部(元:大成化工梶A後:ユニ・タイセイ(株))が内装プレハブメーカーに参入。 特約代行店として営業。 |
| 昭和63年 | 間仕切がパネル内配線になり、図面打合せが重要になる。 施工も専門化し、契約も材工共に移行する。 グループ会社として、アイ・ピー・テクノ株式会社を設立し、設計、現場施工、図面作成、工事管理を担当する。 |
| 平成7年 | 阪神大震災発生。 兵庫県営住宅は例年の10倍の戸数が発注される。 工事の施工水準を一定にするため、すべてプレハブ工法が採用された。 グループ会社である「アイ・ピー・テクノ株式会社」が設計、納入、施工、検査、まで一貫して受注するようになり、濱野建材株式会社は営業部門としての役割を大きくする。 |
| 平成11年 | 都市基盤整備公団(現独立行政法人都市再生機構)でリニューアル工事開始。 木製建具・床材・上り框等を納品。団地・タイプ・品番・寸法などの情報をデータとして一括管理。 ミリ単位での建具寸法に対応し、短期での納品体制を整える。 現在も継続中ですでに20,000開口以上の納品実績。 |
| 平成20年 | グループ会社「アイ・ピー・テクノ株式会社」はこれまでの現場施工部門としての役割から、プレハブ工法における製造メーカーへとシフトする。 同時に同社代表取締役には濱野良平が就任。 |